h-jinの日記

現在 胆管癌ステージ4 奇跡の復活をかけ闘病しながら guitarを弾くギタリストブログです

還暦ライヴへの想い

私の病は「肝内胆管癌ステージ4」

肝臓内の胆管だけでなく、腹膜播種などに転移が見られると

診断されたのが2017年のクリスマス。

 

この状態での「統計上での生存率」は3年で5%となっている。

今日現在で、「宣告」から1年半以上経過している。

幸いなことに、8月13日のCT検査結果も、4月度と比べ

「ほぼ現状維持」という状態である。

 

主治医も「うまくコントロールしている」と驚いているのだが

油断はできない。

何しろ来年はいよいよ「3年目の壁」なのだ。

 

発病以来、某ブログで闘病ブログを書いているが

そこで何人かの同病の方や、他種の癌闘病者の方々と知り合い、励ましあったり参考にしたりしている。

その中でやはり「3年目で他界」されたかたが

今年2名いらっしゃるのだ。

その中でも、ショックを受けたのがAさん。

彼は私より若かったが、3年目の終盤まで

元気で、家族旅行までされていたのだが

急に容態が変化して、最後の旅行から2カ月で

他界されてしまった。

私もAさんに続こう!と思っていた矢先だった。

 

あくまで「統計上」とはいえ、3年というキーワードは

我々には重い。

しかし、それを越えるべく、私は日々取り組んでいる。

気持ち的には絶対負けてはいない。

 

その意味でも、闘病を支える意味でも

来年の3月、還暦を迎えるにあたり

「還暦ライヴ」をどうしても実現したいの思っている。

皆様の前で演奏し、話をし、笑いあい・・・・・

そんな空間をぜひぜひ実現させてみたい

 

 

 

部屋以外でギターを弾く

普段は大抵自宅でなくとも「部屋」「室内」で弾くと思う。
ところが最近気づいたことがある。
広い空間、たとえば倉庫の入口とか、天井の高くて広い建物内で弾くと
これがまたいい。

部屋で弾いた場合、プレイヤーの耳にはギター本体の音が
狭い空間に跳ね返って結構気持ちよく感じる。

ところが屋外や広い空間だと、俗に言う「音が散る」ので
割とデッドな音になる。
そこで弾いてて気持ちいい音、しっかり耳に届く音を出そうとすると
部屋で弾く場合に比べて右手のタッチを工夫せざるを得ない。
自然と強めのタッチになると思う。
ただし、いつもより「力み」が入ると滑らかに動かずミスタッチが増える。

よって、ミスタッチをなるべくせずに強く弾く「工夫」を集中して行う自分に気づく。
音が散る中で、どうすれば立体的で耳に残る音が出せるか、を工夫するわけだ。
それでないと気持ちよくないので とても弾けたものではない。

そしてそれに加えてできれば自然の風を身体に受けれるところで
弾けたら尚良い感じになる。
弾きながら音を風に乗せるようにイメージする。
自然の風は人工的なエアコンの風や扇風機の風と異なり
実に絶妙な揺らぎと強弱で吹いてくれる。
そして気分をかなり和らげてくれる。
それに乗せて弾くと、演奏自体もあたかも自然の風と一体になって無機質なプレイではなくなる。

さらにギターにとって、紫外線は敵だが、自然の風は味方だと感じる。
自然の風をギターに浴びせていると ギターも気持ちいいと言っている声が聞こえる。
それと、さきほどの右手の工夫されたタッチをもって、強く弾くのでよく「鳴るように」なる。
もっとも雨風のように湿気を帯びた風はNGだが。。。。

この自然と一体化する練習法、春と秋が一番いい。
夏は早朝ならいいが、湿度が高すぎるように思う。

一度自然の風を受けてプレイすると 病みつきになると思う。
それほど気持ちいいし、演奏に集中できる。
できれば人のいない空間を見つけれればいいが・・・・

アニミズムとギター

アニミズム英語: animism)とは、生物無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくはが宿っているという考え方。19世紀後半、イギリス人類学者E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。日本語では「汎霊説」、「精霊信仰」「地霊信仰」などと訳されている。この語はラテン語アニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味である」

出展 ウィキペディア

 

難しいことはさておき、私は確かにギター一本一本に「魂」なるものが

宿っていると信じている。

それはギターの「製作者」の「気」とか「信念が宿る」とかとは

また別物と考えている。

いや、製作者(ルシアー)の人格、製作意図などが、そこに宿るものの

「格」に影響を与えると感じるので全く別物ではないが・・・・

 

そのギターに宿るものをプレイヤーが「育てる」というわけである。

よく「ギターを弾き込めば音が良くなる」ということが言われており、

科学的に「木材の中の水分」やら「分子の並びが弾かれることで揃う」とか

木材の接合部分が弾かれることにより馴染んでいき、より共鳴するようになる・・

とか、まことしやかに諸説紛々流れている。

確かに「科学的には」そうかもしれない。

私にはそんなものより プレイヤーの弾くときの「想い」が

ギターに宿る魂と共鳴していく、そして宿るものが成長していく・・・

そう考えているし、その方がロマンがある。

 

また、私の好きな言葉に「音楽は祈りである」というものがある。

祈りとは「感謝」でもある。

昔読んだ書物に「祈り」の語源を調べていくと「神への感謝に繋がる」と

書いてあった。

よく神前で唱えられる「祝詞」(のりと)というものがある。

高天原に神座ります・・・」で始まるものだ。

この「のりと」の「のり」は「宣り」から来ており、神聖なるものが伝えるとの

ことであるからして、「祈り」も「のり」に関連している、とのことだった。

 

よく今でも「初詣の時にあれこれ神様にお願いするのではなく、感謝することが

本当の詣でるということだ」と言われる。

私もそうだと思っているし、だから正しい祈りとは「感謝すること」だと思っている。

 

すると先ほどの言葉、音楽は祈り、ならば音楽とは感謝を神に捧げるもの・・・となる。

その気持ちを持ちながらプレイしていきたい、最近はそう感じている。

そうすることでギターに宿るものと共鳴もし、そのギターの奏でる音が

自らも他者も環境をも癒していければ・・・と勝手に思っている。

 

感じたことをつらつらと書いたまでで、これが「正しい」とは一切言明してないので

念のために・・・

 

 

 

シンプル イズ ベスト

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日本の伝統美の一つに「侘び寂び」がある。

茶室の草庵は その極地と言われている。

 

私は好みのギターも同じで 絢爛豪華なインレイを施したギターよりも

素朴なものが好きだ。

ライヴで弾くギターの場合は、老眼ゆえ暗がりで指板の位置を見失う危険性を

鑑みて指板にインレイがあれば安心だが、普段自宅で弾くギターは

指板インレイも不要だと感じている。

アバロン貝の煌くインレイも、それなりに美しいのだが

木工芸術品」のギターはインレイよりも「木の香り」が漂うような

素朴さが私は好きなのである。

ヘッドの「ロゴマーク」も不要 

そんなメーカーの主張しなくとも いいものはいい。

日本の伝統美、それを伝統工芸のように仕上げてくれるルシアーのギターを

私は好むのである。